お礼だけを書いて更新というのも小心者には難しいので、昨日のトヨタカップらしきものが何故私の記憶に残ることが無かったのか、とつらつら考えてみた事を書いてみる。
サッカーは戦争だとよく言われる。それは、主に欧州において国家や民族間の代理戦争の意味合いがあるせいでもあるが、恐怖や絶望といったプリミティブな感情が付きまとうという意味でもまた、戦争に近いように思える。
サッカーは何点も点が入るスポーツで無いだけに、点を取られた時の絶望は深く、ゆえにピンチの恐怖は大きい。しかも2秒で点が決まる可能性もあり、恐怖から解放される瞬間がほとんど無い。
また、弱小チームにとって、昇格や降格は言うまでも無くクラブの命運を左右するものであり、降格決定や昇格断念という現実に人は恐怖する。強いチームにおいても、優勝は義務であり2位以下に甘んずる屈辱に対する恐怖は存在する。
当然、良いプレイや美しいプレイは勝利あっての事で、敗戦を超えてサポーターがプレイを慈しむ事はほとんど無い。サポーターは常に選手の背後にいて、勝利のためだけに選手を鼓舞しつづける。サポーターと選手は恐怖において一心同体である。
では、昨日のトヨタカップはどうだったろうか。観客は闘牛を見るように、マタドールであるレアルがオリンピアをどのように美しく打ち負かすかを期待し、心の片隅で猛牛役であるオリンピアの抵抗にも関心を寄せる。牛の背に突き刺さった剣のごとくゴールは多いほどよく、0−0の引き分けはただの欲求不満になる。しかしフィールドの中では、オリンピアには失うものは何も無く、レアルにとっては勝ちたいけれどもCL決勝で敗退するほどの屈辱が待っているわけではない。血は期待しても流れず、画面のどこにも恐怖は無い。
確かに、このトヨタカップはショーやスポーツとしては素晴らしいクォリティのものだった。だから、心底楽しんだ人を私は否定しない。だが、最近昇降格試合を見てきた者にとっては、サッカーの本質の一部が欠けていると感じた事も、また確かなのである。