2002年11月28日

・ペルソナリタ

UEFAカップへたれべろりん戦を見た。小野もそうだが、稲本も相変わらずポジショニングや動きに迷いが見える。良いプレーもするが凡ミスも多く、ちょっとこのままではレギュラーは難しい出来であった。

それをトルシエの言うスターシステムにこじつけるつもりは無いが、やはり日本のレベルでは、海外移籍を果たせるような選手は、どうしてもチームの中心選手、しかも中盤に限られてしまうわけで、だいたいはその選手を王様として他のメンバーの動きが決められてしまうような環境であるため、周りに合わせてどう動くかが、しっかり身についていないように思える。あれほど考える選手である中田でさえ、その影響から永らく逃れられなかった事を思えば、どんな選手が行っても必ずぶつかる壁なのだろう。

特に稲本の場合、おそらく世界で最も攻守の切り替えが早いプレミアに最も遅いリーグの1つであるJから移籍し、なおかつ判断が悪いと即致命傷になるボランチというポジションであるため、余計に苦労している感はある。もともとトップ下でもFWでも無く、守備から攻撃に入ることでリズムを作っていくタイプなので、本当はボランチでやればもう少しマシなのかもしれないが、判断やキープの確実性を見ると、ティガナはまだ無理だと判断しているのであろう。むべなるかな。

という事を考えていると、ちょうどNumber Plusのイタリア特集で、懐かしのペトラーキにインタビューしている記事に、ちょうど当てはまる言葉があった。それが「ペルソナリタ」、英語で言うところのパーソナリティ、日本語ではトルシエ流に言うと人間性、一般的には自己表現である。ペトラーキは、日本的な謙譲や奥ゆかしさに気づきながらも、中田に自分をもっと出すことが大事だと言ってきたそうだ。もちろん、それが出来たから中田はペルージャで成功したのだろう。

かたや稲本だが、インタビューで「周りとのバランスを考えて動いた」という言葉を耳にした事があった。しかし、それがペルソナリタになっているとはとうてい思えない。パッと試合を見た人がまず目を奪われるのは、どんなプレイをしているプレイヤーだろうか。まず、得点を取った者、見事なドリブルをした者、ファインセーブをしたGKなどだろう。「今日の稲本はバランス取りが見事だった」と試合後に真っ先に言う人が日本人以外でいるだろうか。

もちろん、サッカーとはチームプレイであり、全員がスタンドプレイをしていたら永遠に勝てない。しかし、同時にサッカープレイヤーは個人事業主でもあるのだ。いくらチームに影で貢献した役割が出来ても、同じポジションで少しでもプラスの働きが出来る人間が現れたら、そこでサヨナラである。同じ能力でより華のあるプレイヤーが来ても同じことになるだろう。じゃあいったいどうすれば良いのか。

再び中田を例に出すと、中田はペルージャではペルソナリタを発揮して王様の座を欲しいままにしたが、それは全くレベルの違うローマでは通用せず、トップ下で起用されることがあってもパスは回されず、ボランチがどんどん中田を飛び越えて前に上がってしまい、中田はただポジションのカバーにうろうろするだけだった。で、そのローマが弱かったかというとそうではない。ちょうど稲本が出ているフルハムがそれほど弱くないのと同じだ。だからと言って、それは選手の安泰を意味しない。

つまり、欧州におけるサッカーのチームプレイとは、皆が他のプレイヤーの事を配慮して自己犠牲の精神で一致団結する日本的なものではなく、11人でやる棒倒しのごとく、より目立つ働きを求めてわれ先に棒の先の旗に殺到し、その争いに敗れた者が自己犠牲役を仕方なくやる事で、バランスが保たれているものなのだと思う。もちろんそこには信頼感やカリスマ性、人間関係なども入ってくるのだろうが、基本的には弱肉強食の上に成り立つチームプレイなのだ。きつい言い方をすると、不動のレギュラーでも無い者がバランス役をやってる事は、チーム内で負け犬になってしまってると言う事だ。

稲本はアーセナルに在籍したとはいえ、ほとんど試合に出ておらず、ペルソナリタの壁はペルージャからローマよりもはるかに高い。バランス役をやった事を恥じずに言ってしまう彼は、果たしてそこを理解しているのかどうか。ロンドンにもペトラーキがいてくれればいいのだが。


サッカーコラムマガジン「蹴閑ガゼッタ」