以前に、京都対大分の試合で、大分のロドリゴ選手が相手のプレゼントボールをそのままゴールに蹴り込んでしまった事件があったが、その事についてネットや雑誌で議論が沸きあがった事を覚えている方も多いのではないだろうか。
ここでも、サポティスタの岡田氏と議論した事があったのだが、私はその時「まずフェアプレイありきなのだ」と説いた。しかし、セルジオ越後氏がサッカーマガジンで書いたように「ルールこそ優先されるべき事で、選手が勝手にルールを作るな」という意見もあり、また「日本選手はナイーブだからもっとずるがしこくマリーシアを使って試合をしないといけない」というのも昔から言われつづけてきた事であったりして、この「フェアプレイ・ルール・マリーシア」という、一見それぞれがばらばらに見えてしまう、それでいてサッカーとは切っても切れない関係がある概念について、一度きちんと整理しなければいけないなと思っていた。
ある時、ふと「イギリス人の表と裏(山田勝著・NHKブックス)」という本を見つけて読んでみた。この本の中に、イギリス人にとってのスポーツとフェアプレイの成り立ちが書かれている部分があった。以下に要点を挙げてみる。
・サッカー、ゴルフ、ラグビー、クリケット、テニスなどイギリス発祥のスポーツは多いが、もともとはイギリス貴族階級の気晴らしであり、中世の騎士達にとっては馬上槍試合などの命をかけたギャンブルであった。
・命をかける遊びが何でもありという条件では大変な事になる。そこにルールというものが生まれ、さらに名誉や体面を重んじる貴族趣味、つまりスノビズムの美意識が合わさってフェアプレイの美徳というものが重んじられるようになった。
なるほど、イギリス的な考えではスポーツというものはルールはもちろん、スノビズムという貴族的な美意識があってしかるべきものであるらしい。
確かに、スポーツをする事だけを考えればテニスをするのにスコートをはく意味は無いし、ゴルフとてスポーツウェアにスニーカーの方がきっとボールを打ちやすいはずだし、もっと言えばパターゴルフの延長のように人工の芝と穴でも出来るはずだ。しかし、それではやはり別の遊びになってしまうという感じは日本人の眼からしても否めない。
もちろん、単なる見てくれだけでなく、様々な精神性や様式というものも、スポーツクラブという一種の貴族的な特権社会を形作るためには不可欠なものだったのだろう。
つまり、フェアプレイとルールは、前者がスノビズム的な精神性から派生したものであり、後者が命をかける上で守るべき約束事として生まれたもので、性質は違えどスポーツを支えるという点では両方とも欠かせない柱だという事なのだろう。従って、セルジオ越後氏の言うような「ルールが全て」という考えは、スポーツを構成している半身を無視した意見であり、おかしいと言わざるを得ない。
そこからマリーシアについて考えると、マリーシアはいわばルールの裏をかくような「ルールに反してなければ勝利のために何をやっても良い」という考え方であり、すなわちスポーツから精神性を取り去った概念である事が分かる。つまり越後氏のルールこそ全てという意見は、裏返せばマリーシアの正当化につながる話であり、マリーシアの本場であるブラジル出身者らしいと言えるのかもしれない。
また、マリーシアをスノビズムという観点から見れば、マリーシアを駆使する選手というのは貴族的な立場をわきまえない者であり、すなわち社会的に下等のものといった階級的差別の対象として蔑まれるという面があるのではないだろうか。逆にマリーシアを使う側からすれば、それは貴族階級に対する反逆であり社会差別に対する階級闘争として正当化される意味合いがあるのかもしれない。そう考えると、もともと植民地の支配層や工場経営者の娯楽としてサッカーが伝えられたラテン系の国々で、マリーシアという概念が発達したのはある意味当然なのではないかと思う。
そう考えると、マリーシアというのは勝負という点で見れば使う側のほうが一方的に得なように見えるのだが、マラドーナの「神の手ゴール」が欧州クラブのコーチの侮蔑の対象になっているという湯浅氏の証言を見ると、欧州勢が束になってもかなわなかった、マラドーナというサッカー的には明らかに上等の存在を、社会的に下等な存在と見下すことによって、何とか自分たちのプライドを守っているといった欧州にとって都合の良い概念として使われているという側面が見え隠れする。
その点では、どちらもフェアプレイという建前とマリーシアという方便を、立場によってうまく使い分けているように思う。もっとも、イラク戦争での国連外交などを見てもそれはサッカーに限ったことでは無いのだが。
さて、日本の場合である。日本は柔道や剣道、果ては華道、茶道に至るまで、スポーツや娯楽というものに精神性は不可欠である。明治になってからは、武士道などの階級的スノビズムという点での意味合いについては薄れたところはあるが、その代わり明治や戦後の道徳教育によって、フェア、公明正大、正々堂々という概念は国民全体にすっかり浸透していて、フェアプレイについてはスノビズム的でないにしろなじみやすい概念であると言える。しかし、道徳に反し階級社会も存在しない日本ではマリーシアは方便としても使い道が無い。
結局、日本サッカーとマリーシアは互いに相容れない存在なのだろうか。そのキーポイントとして、私は「明るさ」というものを挙げてみたい。
例えば、大阪の陣で謀略の限りを尽くして豊臣家を根絶やしにした徳川家康と、敵将に対する寛大さとキャラクターで今なお愛される豊臣秀吉、武田信玄に塩を送った逸話で知られる上杉謙信など、人を殺しまくった同じいくさ人でありながら、美談や明るさの有無で後世に対する印象は全く違うものになっている。謀略に対して機略、詭弁に対して頓知という言葉があるように、「明るい」マリーシアに対する理解は日本にも存在しているように思う。
スポーツの場合、所詮勝敗事であるからなかなか明るさの演出という点で難しい面はあるだろうが、あのメキシコのブランコの蟹バサミのように、やられた相手も思わず笑ってしまうようなマリーシアならどんどんやってみても面白いのではないだろうか。
ルールだフェアプレイだといったお固い話だけでは、サッカーも人生もつまらない。