コンフェデ予選敗退を受けて、マスコミやネットではジーコジャパンに対する様々な意見が渦巻いている。その中でよく見るのが、ジーコは選手の個を生かし、トルシエは組織に選手をはめ込む、本当はどっちがいいのかといった意見である。
この論法では、あたかもジーコの方が選手に優しくてトルシエの方が過酷であるように聞こえるが、本当は逆なのではないかと思う。つまり、トルシエの方が実は未熟な日本選手を懸命に助けていたのではないだろうかという事である。つまり、
と言ったようなトルシエが取った対策を見ると、どれもこれも日本選手の弱点をカバーするためのものであるのが分かるだろう。それがジーコジャパンになって、個があらわになったゆえの反動がプレイ以外の部分で深刻に現れて来たと言えるのではないか。
例えば、森岡は日記でアルゼンチン戦後半からラインを高くするようにして手ごたえをつかんだと言っているが、酷な言い方かもしれないが、なぜ中田が来る前にそういう決断が出来なかったのか。もっと早く自主的にラインで守っていればサブに落ちる事も無かったのではないか。
また、サブメンバーはレギュラーとコンビネーションが出来ていないので良くないのは当たり前という意見もあった。しかし、中田や中村が特別彼ら以上に練習期間が長かったわけではないし、急な起用をされた遠藤やバックラインはどうだったのか。アーセナルやフルハムでの稲本を見れば分かる通り、サブは普段の練習ではほったらかしであっても、試合に起用されればレギュラー以上の内容と結果が求められる厳しい立場なのが普通である。
もちろん、そのやり方は育成も視野に入れなければいけない日本の実情とは合わないわけで、ジーコが良いと言うつもりはもちろん無いが、ジーコであるからこそ見えてきた「個の意識」の問題に気付かなければ、それこそ1年が無駄になってしまうように思うのだ。
意識の問題はすぐに解決できるような簡単な問題ではない。中田が時間がかかると言ったのはまさにその事を指しているのではないだろうか。ローマやパルマで苦労しつつ生き抜いてきた中田だからこそ可能だったのかもしれない。しかし、結果オーライではあっても選手が自主的にやって出した成果をジーコは認めてくれるというきっかけを中田が与えてくれたのも確かである。
「神様の言う事は絶対」というカリスマの呪縛から解放された国内組が、今度はどういう自分達の試合を見せてくれるのか。その結果を見てみる時間を少しだけ持つのも、悪くない選択なのではないだろうか。
コンフェデレーションズ・カップ2003は大本命のフランスが予想通りの優勝を手にして終わった。
フォエ選手の悲劇以来大会そのものの意味があいまいになり、決勝ではもはやスポーツではなく壮大な劇場となってしまった現実を見ると、総括と言う形で筋の通った考察をする事はいかに私の屁理屈でも不可能で、今回ばかりは「雑感」と言う形で書き散らすしか無い。
とりあえず、大会が終わって私の頭の中に漠然と浮かんだキーワードは「コンディションとプロフェッショナリズム」であった。
フォエ選手の事故は言うに及ばず、昨年のW杯での強豪国の早期敗退や近年のCLの試合数の増加、コンフェデ開催中にも行われているスペインリーグの存在、そして南米予選やユーロ予選の日程の関係などから、今大会ほどコンディションの問題がクローズアップされた大会は無かったと言えるだろう。
しかしその一方で、トルコやコロンビアはほとんどの選手が中一日のベストメンバーで戦い、日本では欧州リーグが終わって一番疲れているはずの中田がJたけなわの国内選手の誰よりも多く走り、特にトルコは驚異的な運動量で3位決定戦でも得点を決めたトゥンジャイを筆頭に誰もが豊富なスタミナを見せ、チームメイトを失ったカメルーンとクラブで親交があった選手が多いフランスの決勝戦は、選手の精神的なダメージにもかからわず、実に立派な内容のものを見せてくれた。
日本はと言えば、ジーコがNZ戦で選手交代しなかったこと、フランス戦をベストメンバーで臨んでコロンビア戦に選手を温存しなかった事で、予選敗退の原因をコンディション面の管理のまずさを指摘される事が多かった。確かに、試合を適切に休んでいれば宮本の集中力を欠いたミスは起こらなかったかもしれないし、大久保のキレも維持できてシュートをふかす事も無かったかもしれない。慣れないフランスのピッチで選手の疲労も倍加していたのかもしれない。だが、タフな中田やトルコ選手の姿を基準として見ればどうだっただろうか。
名波がベネチアに渡った時、シーズン前の練習はほとんどがランニングやウェイトなどのフィジカルトレーニングだったと聞く。結果、イタリアでこそ羽毛と称されて最後までフィジカルに苦しんだがアジアカップでは別格のタフさと粘り強さを見せた。また、オシム監督は徹底的に選手にスタミナを付けさせ、たった半年でどこのチームよりも高い成果を挙げて見せた。中田以外の日本選手は、そこまで自分を追い込んでいたと言えるのだろうか。
問題は肉体面だけではない。ジーコジャパンになって1年、選手はトルシエ時代に比べるとはるかに自由な代表での雰囲気を満喫していたのかもしれないが、その実態と言えば中田が改革するまでは、声を出さない、自分たちで守備の工夫をしない、和気藹々ではあるもののぬるま湯のようなアマチュア集団なのでは無かったか。私が「中田現場監督」と書いたのは、別にジーコが何もしていないと言う意味ではなく(少しはあるが(笑))、一人前のプロならちゃんとやって当たり前の事を中田だけが危機を感じて行動してしまっている事に対する皮肉でもあるのだ。以前にも書いた事だが、ジーコが大人として自由を選手に与えてくれたのならば、自分達で今まで以上の結果を出す義務を果たさなければならないはずである。
とかく我々は戦術や選手交代の采配など、料理の味付けや盛り付けの見栄えなど分かりやすい方向でチームと言うものを評価してしまいがちであるが、悪い素材をどう工夫したところで本当においしい料理は出来ないのである。「たとえピッチの上に死ぬことを意味しても、我々はこの準決勝を絶対に勝つ」と言ったコロンビア戦ハーフタイムでのフォエ選手の言葉に対して、大きく胸を張れる選手は日本に何人いたと言うのだろうか。
もちろん、建設的でない結果論や根性論だけでは何の解決にもならない事は分かっている。我々に選手の疲労と言うものが本当はどれくらいなのかは分かるはずも無いし、コンディションと死因とが直接関係付けられたわけでは無いにしろ、フォエ選手が試合に出ずにベンチに座っていても同じような悲劇に遭ったと言うつもりも無い。やはり人の死という圧倒的な現実の前ではどんな理屈も消し飛んでしまうわけで、宇都宮氏が現実逃避の感情に襲われたのは現場にいたからだけではないだろう。ブラッター会長へのブーイングは誰にも止められない。
しかし、フォエ選手の死と言う闇とトルコの躍進と言う光、このコントラストの差に目がくらんで思考停止するだけでは、それこそ全てが無駄な茶番になってしまうように思うのだ。
選手が素晴らしい結果を見せれば見せるほど光は眩しく、そしてその輝きが大きいほど、事故はもちろん引退などで失われたときの闇は深い。それがあまりにはかなく美しいからこそ、高いコンディションとモチベーションを維持し、質の高い輝きを保つプロフェッショナリズムに人々は最大限の敬意を払うのかもしれない。
その美しい矛盾の象徴とも言えた決勝戦を日本の選手達は生で見ることは無かったのだが、表彰台で悲しみを湛えながらもどこか晴れ晴れとした面持ちで互いを称え合うフランスとカメルーンの選手達に送られた拍手の重みを、彼らは果たして感じる事が出来たのだろうか。