この文章を書いている時期は、ちょうどアルゼンチン戦の前の時期である。
初戦のジャマイカ戦以来、ジーコ監督に対する風当たりがファンの間で強くなってきている。実質2日間しか練習していない、欧州組もコンディション悪い中でやったにしては、まずますの試合だったかなと思うが、やはり前任者と比べられてしまうのは仕方ないところだろうが、個人的にはそれ以外にも大きな理由があると思っている。
それは、未だに私たちには「ジーコの顔」が見えてこない、ということである。戦術や結果というものではなく、2006年に向けての日本が目指す理念だとか方向性という部分なのだろう。
トルシエはそういう意味では、分かり易すぎるぐらい明確だった。と言うか、それだけで4年間やってきたと言っても過言ではない。だから、彼に慣れてきたサッカーファンにとっては、理念が見えないというのはフラストレーションが溜まる事になってしまうのではないだろうか。
しかし、この監督自身が理念という奴を旗印にして全てを引っ張っていくというのは、考えてみれば非常に反日本的なやり方ではないだろうかと、ふと思う。
だいたい日本において名将と称される監督というのは、まず(外側から見て)人格者であり、あまり余計なことをしゃべらず、常に奥に隠れて臨機応変の采配を振るって結果を残す、というタイプだろう。
たまに、ラグビーの平尾や林、大八木を育てた伏見工監督の山口先生のような、陽的なキャラクターの名将もいるのだが、そういうタイプはだいたい色物として扱われて来ている。
それを考えれば、ジーコというのは正に日本的な名将タイプであるが、その監督に対して「方向性が見えない」などという批判が多く出ているのは、いかにトルシエが残した影響が大きいかというのを表しているのではないだろうか。