「サッカーの敵」サイモン・クーパー著 白水社 |
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この本は、著者がのべ9ヶ月22カ国に渡って、文字通りの「サッカーの敵」、つまりサッカーにまつわる舞台裏を書き上げた渾身の力作である。
まずはバルト三国におけるロシア移民政策の傷跡を残した代表試合風景から始まり、ロシアとウクライナの社会主義とマフィア、オランダとドイツのナチ侵略の歴史にからめた遺恨、西スコットランドにおける宗教対立、クロアチアの民族主義、アフリカの呪術とハチャメチャな協会の体制、南アフリカのアパルトヘイト、アルゼンチンの軍事政権、ブラジルのスラム、アメリカのサッカーに対する無理解などがどれだけサッカーと言うスポーツを蝕んでいるかが、微に入り細に入り描かれている。サッカーの試合に不正なんか無いと信じているナイーブな人は是非とも読んで欲しい(笑)。
しかし、この絶望的な状況に対し、時にはあきれ、振り回されながら、まあこんなことは日常茶飯事なのだよとでも言うように、著者は淡々と情景を描いているのみである。
普通なら、本来純粋なスポーツであるはずのサッカーが、ここまで悪に染まっている事象に遭遇すると、ライターとしては何らかの感情というものを書かずにはいられないものだろう。例えば、「スポーツは純粋なものなのにけしからん」と憤ったり、「たかがサッカーなのにバカじゃないの?」と冷笑して見せたり、もしくは「スポーツも純粋に楽しめないかわいそうな人たち」と同情を寄せてみたりという風に。そのふりをするのは日本のワイドショーの得意技だけど。
もしかすると著者はサッカーに愛が無いのか?それとも感受性が麻痺しているのか?人によってはそう思うかもしれない。しかし、私はそこに全く逆なものを見ている。
例えば、たまの休みに知らない土地を旅行したとしよう。そこでは何もかも珍しく、通勤路のそばに生えていたときには踏んづけるだけで気付きもしなかったタンポポをカメラで撮ってしまったりするだろう。旅行先がもしインドだったら、ニセモノでも何でも10倍以上の値付けをしないと気がすまない土産屋や、足の無い乞食や目の見えない物乞いにうんざりして街に出るのが嫌になってくるだろう。しかし2、3週間もそこに居れば、土産屋は世間話の話し相手となり、物乞いはただのうるさいオッサンになってくる。
つまり、著者は旅人でない、あくまでそこに住んで生活している人の視点で、サッカーとサッカーの敵が「必要悪」としてお互いの血肉になって分かつ事が出来ない世界、それが嫌でたまらないのだけれど離れては生きられない人たち、その彼らの視点で書いているのである。だからこそ、本書に数え切れないくらい登場するどうしようもない奴らがまるで近所の鼻つまみ者のように憎みきれず、彼らの腐った日常がちょっと魅惑的に見えてしまうのだろう。
グラスゴーにおけるセルティック対レンジャーズ、いわゆる「オールド・ファーム」と呼ばれるカソリックとプロテスタントの宗教対立に根ざしたダービーマッチを描いた章の一節にこのような文がある。「英国のファンはファン・カルチャーを楽しみ、ライバルを憎む事を楽しんでいる。セルティックとレンジャーズのファンはお互いを必要としている」
そう、この本はちっとも敵なんか描いちゃいないのだ。敵も何もかも飲み込んでしまうサッカーという化け物を描いているに過ぎない。そもそも、そんな怪物に敵など存在するわけがないのだ。
ここに登場する国のように日本がなって欲しいとは決して思わないが、もしサッカーが日本を飲み込んでしまった時にはどうなってしまうのかについて、この本を読んでちょっと夢想してみるのも悪くないんじゃなかろうか。