2003年5月8日

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「世界サッカー紀行2002」

後藤健生著 文芸春秋社

序文に『各国のサッカーの発展が、その国の気候や風土、歴史、文化とどう関わっているのかというのがこの本のテーマなのであるが』とあるように、この本は単なるその国のサッカーについての解説だけでなく、ある意味世界歴史地理教科書と呼べるぐらいに「国の中身」についての記述が充実しており、サッカー文化論を得意とする後藤氏の面目躍如たる本である。

また、例えばカメルーンの国内リーグ事情など、実際に行って調べた人間しか分からないような事まで書かれており、この本が単なる書物からの引用ではなく、実際のフィールドワークによって書かれた地に足のついた知識によって形作られているものだという事が分かる。

我々はついついアフリカならアフリカ、南米なら南米と大雑把に分けてサッカーのスタイルについて語りがちだが、この本を読んでいると、それぞれの国にはそれぞれの文化や事情があり、それが元になってそれぞれのサッカースタイルを形作っているのだと言う、考えてみれば当たり前の事に気付かされる。

そこらのサッカー評論家が「日本はサッカースタイルが無い」などと言ったりするのも、自分たちが今の日本を説明する言葉を持っていないだけの事で、日本で育った日本人が集まってサッカーをやればそれが「日本のサッカー」なのだろう。おそらく、外の国から見れば岡田ジャパンもトルシエジャパンも、今のジーコジャパンですらどこから見ても「日本」以外の何ものでもないように見えるはずだ。

しかし後藤氏は序文にこうも書いている。

『誤解しないでいただきたいのは、ある国のサッカー・スタイルというものが文化や国民性によって既定されるわけではないということだ。』

「出る杭は打たれる」のが日本社会の特徴だとしても、釜本や中田は正にその出る杭だと言えるし、組織的なスタイルを好むJにもセレッソのような自由特攻チームがある。それらの存在まで「日本的」という一つの言葉でひっくるめる事は、ステロタイプで偏見に満ちた視点の肯定になってしまうだろう。

同じ事はこの本にも言える。もちろん、飲み屋でガールフレンド相手に「イタリアが守備的なのは都市国家戦争の名残として勝敗を重視したからなんだよね」と、にわか知識をひけらかしたい人にはうってつけの本であるし、私もそういう「実利的」な使用目的を否定はしない(笑)。

しかし忘れてはいけないのは、この本はサッカー理解の助けになってくれるが、その国のサッカー全てを表現しているわけではないという事である。もしサッカーを愛する人であれば、あくまでこの本はガイドブックとして使い、自分の足と目で自分のサッカー紀行として続編を書き綴っていって欲しいと願うのである。

「世界サッカー紀行2002」 後藤健生著 文芸春秋社 


サッカーコラムマガジン「蹴閑ガゼッタ」