「LIBERO―洪明甫自伝」洪明甫著 集英社 |
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言うまでも無く韓国サッカー界のスーパースターであるホンミョンボの自伝である。内容的には、2002年W杯での韓国代表の躍進の舞台裏や、小学生からJリーグに至るまでのサッカー人生の振り返り、そして妻自身の筆による寄稿(これが結構面白い)などで、それだけを見ればごく普通の自伝と言える構成なのだが、読んでみるとこれがかなり違うものなのだと分かる。
内容のほとんどがサッカーに限らず日本と韓国の違いについての記述であり、しかも良い点、悪い点に対しての観察が非常に鋭く、特に日本の長所を学ぼうという意味の主張が非常に多いのだ。それも個人的にどうかと言うよりも、まず韓国や自分のチームについてどうなのかが文中のほとんどを占め、これっぽっちも文中に自己愛というものを感じさせるものが無いのである。
それを単なる格好付けだとこじつけるのも可能だろうが、私が素直に感じた事は、「ああ、キャプテンシーとはこういう事なんだろうな」という事である。自分の事よりまず国やチームの事を考え、必要だと判断すれば躊躇せず行動する。他人にも厳しいがそれ以上に自分に厳しい人間。
そう考えてふと思うのは、そういう存在が今の日本にあるのだろうかという事だ。確かに小野や宮本、そして中山などは人を引っ張るだけの人望はあるだろう。しかし、プレイの面で他を引っ張るだけの力量があったかと言われれば難しい。
プレイ面という点では中田がまず挙げられるところだが、ジェレミーウォーカー氏が最近のコラムでも太鼓判を押しているし、メールでもまずチームの問題点を指摘していたり、徐々にキャプテンらしくなってきているのは確かだろう。中田はおそらくホンミョンボ以上に日本の問題について理解しているだろうし、自分の努力で解決できる事なら何でもやってのけるのも間違いない。しかし、ドゥンガやトルシエ自身がやっていたように、たとえ人から嫌われようとも、勝利のためにベストだと思える行動を誰に対しても貫けるのだろうか。チームが苦境に陥った時にはチームワークを乱す者を叱り飛ばし、場合によっては排除してしまう事も必要になるのではないか。
こう書くと某闘将を思い浮かべてしまうのだが、彼がしばしば悪い意味でカリカチュア化されてしまうところに、日本のキャプテンシー不足に対する真の問題があるのかもしれないが・・・
話がそれた。この本の最後のインタビューで、ホンミョンボが柏在籍中の時の発言についての記述がある。そこを少し要約して書いてみる。
「トルシエがキャプテンはいらない、キャプテンは私だと言った事がありましたよね。一見すると選手をバカにしているように思えますが、その気持ちも少しは理解できます。日本には先頭に立ってチームを引っ張るような存在、勝利のために自己犠牲をいとわないプレイヤーが少ないように思います。チームが苦しい時、行き詰まった時にはチームをまとめあげるキャプテンの存在が必要になってきます」
キャプテンシーを体現し、日韓それぞれの利点を正確に判断し取り入れられる人物がこれからのサッカー界を担っていくであろう韓国と、トルシエ発言をネタにし、怒る姿を赤鬼とはやして喜ぶマスコミが跳梁する日本。日本の方がサッカーの環境について韓国より進んでいると言われて久しいが、本当に世界から遅れているのは一体どちらなのだろうか。
サッカーメディアで「キャプテン」という言葉をやたら見かけるようになった昨今だが、この本を読んでその意味するところを今一度考えてみてはどうだろうか。