2003年1月10日

・「ジョン・カビラ夢のマッチアップ」を見て

今年の1月4日にフジテレビ739でやった番組にカピタンが登場していた。ちょっと録画に失敗して最後まで見れなかったので、全部リストアップする事は出来なかったが、だいたいの発言要旨は以下のとおりである。

いやー、ツッコミどころ満載なのだが、どうやって検証しようか(笑)。

まず、「トルシエは選手を型にはめる〜」だが、協会のトップからしてこういう認識なのかと唖然とする。もっともカピタンは全部分かっていてあえて言ってるのかもしれないが。

そもそもフラット3はロボット的な戦術だと認識されがちだが、ロボット的である必要があるのはDF3人の意思の統一性であって、実はラインブレイクのタイミングやラインの位置、2列目の飛び出しへの判断など、かなり選手の自主判断が要求される戦術である事が分かっているのだろうか。でなければラインブレイクに柔軟な森岡より、ラインの上げ下げの細かい宮本がレギュラーに選ばれていたはずである。

また、トルシエには「攻撃の形」が無いと言われていたが、それは型じゃないのだろうか。攻撃なら型にはめるのは良くて、なぜ守備はだめなのか。その意味では、前にも書いたようにマスコミが賞賛するヒディンク戦術のほうが、マンツーマン、サイドアタックと言う型に、よほどはめているといえるのではないか。

つまり、型にはめるうんぬんは、トルシエの軍隊的な練習風景と、フラット3のラインの上げ下げという機械的なイメージで語られているに過ぎず、要は、トルシエ戦術は判断力が要求される型の戦術であり、ヒディンクは体力と対人能力が要求される型だっただけの事なのである。

ちょっと脱線した。次は「攻撃力を生かす」うんぬんだが、カピタンは高校選手権の国見対桐蔭学園は見てないのだろうか。サッカーは攻守一体の競技であり、良い攻撃は良い守備無くしては成り立たない。

そもそも、攻撃的とか守備的と言う表現自体がおかしい。ポゼッションサッカー、カウンターサッカーで表現すべきだ。ジーコのスタイルはポゼッションサッカー志向だから、ボールを持てて精度の高いパスが出せる中村を使う、と言うべきである。ポゼッションサッカーについてはスポナビの西部氏のコラムが分かりやすい。また同じスポナビで最近の木村氏のスペインサッカーについてのコラムでも攻撃的サッカーと言う命題について触れられている。

さらに「個性と想像力を生かしたチーム作り」である。まあだいたい世間の認識では「個性=中村」「無個性=戸田、明神」なんて事になっているのだろうが、言うまでも無く中村には中村の、明神には明神の個性があるわけで、単にどの個性をチョイスするかの基準が違うだけである。詭弁。

もう一つ、「ジーコは攻撃から入る」だが・・・ 普通は守備から入るのは、そういう必然があるからじゃないんだろうか。どっちにしても入る順番が違うだけで、両方必要なのは当たり前。攻撃から入ったほうが選手は楽しいって小学生じゃないんだから。問題は中身。守備の整備を全くしなかったらそりゃ画期的だけど(笑)。

最後、「ジーコに選手は畏敬の念を持って規律が保てる」と言う点には同意。岡ちゃんもその点では苦労を吐露していた。「選手は」だけじゃなくて「協会も」と付け加えて欲しいところだが(笑)。頼むからカピタンも畏敬されるようになってくれ(笑)。

まあ長々と突っ込みを書いてしまったが、結局全ての論拠になっているのは、「ジーコだから」「ジーコは鹿島を強くしたから」だけなのである。もちろんその論拠は全く0であるとは言わないが、鹿島をどうやって強くしたかについての具体的な検証がマスコミによってなされていないのも、今のジーコ懐疑論の原因になっているように思う。カピタンもインタビュー受けるならそういう事をしゃべってくれないと。

また、アジア杯とW杯でポゼッションからハーフカウンターへと代表の戦い方が変わったように、アマチュア同然の住友金属の選手にプロ精神を叩き込んでJで優勝させる事と、既にプロではあるが欧州レギュラー未満の選手を率いてW杯ベスト16にする事は全くステージが違う事なのではないかと言う疑念もある。

ともかく、ここで何度も言っているように、評価は春の対アジアでの試合での内容とコンフェデでの結果であろう。監督の仕事は全て結果である。そこまではジーコの可能性とやらを楽しみに待ちたいと思う。


サッカーコラムマガジン「蹴閑ガゼッタ」