2003年1月29日

・サッカーを語る言葉

このコラムは、湯浅健二氏の「サッカーを観る技術(新潮社)」の書評にする予定だったのだが、思うところあって、ちょっとコラム形式にしてみた。

さて、この本だが、おなじみの湯浅節で、色んな試合の場面場面をプレイヤーのテクニックや動きから紐解いて、その意図や価値について語っていると言うものである。試合における何気ないプレイに見える場面に、どういう発想と技術が隠されているのか事細かに解説している。

もちろんプレイの肝と言うべき部分には、おなじみの湯浅キーワードがふんだんに登場する。「イメージシンクロプレー」、「クリエイティブな無駄走り」、「組織と個人のバランス」、「最後の瞬間における集中力が世界との僅差」、「サッカーは心理ゲーム」・・・いや、素晴らしい・・・

しかし、読んでいくうちに自分の中を複雑な思いが交錯し始める。「確かに良質な本だけど、これは氏のサイト内容がちょっと具体的になっただけだよな・・・とすると、この本だけの価値は何だろうな・・・」と。

しかし、その考えは大きな驕りなのだと気付く。

考えても見よう、この本に書かれている言葉以外で、ピッチの中の魅力を表現するのにどんなものが必要なのかを。

3−5−2とか4−2−3−1と言った戦術論か?>テンプレートとしてはいいが、時々刻々と変化する状況が全て語れるわけじゃない。

過去のチームや選手との比較なのか?>体系的な知識としてあってもいいが、本質ではない。

それとも、選手の監督に対する心情やレストランの食事などか?>論外。

つまり「サッカーそのもの」だけを語るには、余計な語彙など必要が無いのではないか。

トルシエは「500ページの教科書」や「フラット3」などのレトリックを持って、さもサッカーを奥深そうに表現していたが、実は教科書など5ページあればいいのであって、本当の言葉などジーコ言うところの「献身と基礎と個性」だけで足りてしまっているのではないか。ジーコは、「コンセプト」などの言葉をやたら聞きたがる全国の指導者を不思議に思ったのではないか。

確かにそうかもしれない。マラドーナの5人抜きをいくら言葉で表現しようとしても、あの映像の前ではただの邪魔者である。

私も一丁前にこんなサイトを開いて偉そうな物言いをしているが、つまるところ、サッカーの価値はそこにどんなサッカーが行われているか以外にあらず、ここに書いているような言葉の羅列はサッカーを見て頭がトチ狂ったゆえの一人遊びであり、金言でも託宣でも、ましてや文章技術を誇るものでも何でもないのである。

思えば、後藤健生氏は「重鎮扱いされて困る」とTVでぼやいていた事があったが、その言葉をこんな落書きに使用して申し訳ないが、そこには「あくまでも我々はサッカーファン、サッカーバカなのであって、文筆家として崇め奉られる理由など何も無いのだ」と言う矜持があるのではないだろうか。

湯浅氏はその文章力や湯浅語を駆使した表現であるがゆえに、Numberのような文章に陶酔したような文章と比べると受けは悪いのかもしれない。実際、Amazonの投稿書評を見ても、図が少なくて判りにくいという意見が書かれている。さもありなん。

しかし、氏の宇宙語には、サッカーに対する感動と、その魅力を少しでも読者と共有したいと言う熱い想いがほとばしっている。本かWEBかなどは関係無く、その情熱こそが最初に来るべきものなのではないか。

そう、この本だけで理解しようとするな、まず試合を見ろと。見てからもう一度読めと。そういう湯浅氏の叫びが聞こえてくる。

後藤氏や湯浅氏の数万分の一の価値しか無いような私の落書きであっても、一応貴重な時間を割いて見てくださっている人がいる立場として、ゆめゆめその本分を忘れてはならないと思うのである。


サッカーコラムマガジン「蹴閑ガゼッタ」