2003年12月29日

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狂熱のシーズン-ヴェローナFCを追いかけて

ティム・パークス著 白水社

ギネスブックに「ある言葉の登場回数世界一」の項目があれば、この本がエントリーされるのは間違いないと断言できる。

その言葉は、「メルダ」。イタリア語の「クソ」である。

サッカー、カルチョが人の人生に例えられるならば、イタリア一熱狂的で、人種差別主義者の巣窟であり、アウェイにも出かけていって騒動を起こす(とされている)ヴェローナのコアサポーター「ブリガーテ・ジャッロブルー」は、彼らが始終口にする「メルダ」という言葉にふさわしく、クソの中のクソと呼べる存在だと言えるだろう。

この本は、奇特にもヴェローナの熱狂的なファンとなったイギリス人作家ティム・パークスが、2000-01シーズンのセリエAで、最後の最後にレッジーナとプレイオフを戦ってかろうじてアウェイゴールで残留した壮絶なシーズンを、彼らブリガーテと行動を共にして書き上げた戦いの記録である。

とこう書くと、いかにもどうしようもない連中の行動を面白おかしく書いた本のように感じるかもしれない。イタリアのサッカーのイメージとして私達が思い起こすのは、高額のサラリーをもらって華麗なプレイを披露する選手、綺麗に着飾って鷹揚にVIP席に座るオーナー一族、クルヴァで警官と発煙筒の煙に追いまくられる哀れでいかれたクルヴァのサポーターである。

本の中でも、作者がチームに同行して選手や監督、オーナーに取材している場面が存在する。しかし、そこに書かれている彼らの姿は実にモノトーンだ。選手は、コンディションとドーピングチェックのために節制と行動の制限を強いられ、監督の気まぐれ一つでスタンド行きを命じられる事に恐怖とあきらめを隠さない。監督は常に勝利のプレッシャーに晒され、オーナーと醜い名誉の奪い合いを繰り広げる。オーナーは金を出している立場なのにもかからわず、監督には無視され、サポーターから尊敬を集める事はまれである。

ところが、どうしようもないはずのサポーター側に立つと、作者の筆は一気に光彩を放ち始める。確かに彼らの境遇は最悪だ。コカイン中毒を始めとして、アル中、家庭崩壊者、頭のおかしい青年などなど人生の落伍者だらけである。しかし、そんな彼らを「ブリガーテ・ジャッロブルー」は常に分け隔てなく暖かく迎え入れる。そう、ヴェローナを愛している者ならば、誰でもこのコミュニティに参加する資格があるのだ。そう考えると、彼らにとってのチームの本当の価値は、そこに自分が生きていられるコミュニティが存在する事ではないかと思う。

イタリアのコミュニティについて、作者は19世紀にレオパルディが述べた論について引用している。「イタリアでは、会話に加わろうとする人間全てにとって、もっとも重要かつ必要であるのは、言葉と仕草を通して、他者に対するあらゆる軽蔑を示し、他者がもつ自尊心を可能な限り完全に破壊し、他者自身への不満、そして結果として話し手への不満を抱かせる才能である」。

つまり、サポーターというコミュニティが自身のアイデンティティを示すためには、他者に対する罵倒が必要不可欠なのだ。チームの勝敗やB落ちの絶望も他チームのサポーターからの攻撃も、それによって起こる激しい感情の起伏を結束力を高めるために、あえて「必要」なものなのかもしれない。

ウディネーゼ戦のアウェイに赴いたとき、彼らはウディネーゼサポーターに対して「南部のなまりがある田舎者」のような分かりやすい罵倒語が無いために、あれこれ考えた挙句に過去に起きた大地震の事をネタにする。「てめえら地震で一文無し!」

こんな事を日本で言おうものなら間違いなくマスコミに取り上げられて大問題である。しかもホームチームのサポーターに火をつけて試合に得があるはずもない。しかし、ブリガーテのリーダーは彼らを怒らせたことに大満足だ。互いは互いを怒らせなければならない。それがコミュニティ同士のルールだからだ。今日も、彼らは法的に制裁を受けないぎりぎりの範囲内で、人種差別主義のポーズを取り、罵倒し、石を投げる。それがカルチョという舞台に必要なスパイスとされている事を、彼ら自身は良く理解しているのだろう。

小難しい理屈はさておき、降格という地獄を目の当たりにもがく彼らや作者の姿、残留を決めてかりそめの一体感を示すチームとサポーターの姿には、極東のJという舞台でやはり同じように戦っている我々にも、素直に感情移入させられて非常に楽しい。サポーターとは、プロサッカークラブとは何かを考える上で、サポーター自身はもちろん、サッカーを運営する立場の人にとっても必見の本と言えるのではないだろうか。

狂熱のシーズン-ヴェローナFCを追いかけて ティム・パークス著 白水社


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