2003年11月10日

cover

「日本代表監督論」

潮智史著 講談社

「ドーハの悲劇」の時のハンス・オフトから、ファルカン、加茂周、岡田、トルシエ、ジーコと続いてきた日本代表監督について、その仕事振りや協会の果たしてきた役割について、朝日新聞運動部記者である潮氏が論じている本である。

読んでいてまず感嘆せざるを得ないのは、昔から現在に至るまで、協会は監督選考におけるステップの部分であまりにも無力、無見識、無邪気だという事である。

まずオフト。横山体制の失敗で外国人監督をという事になり、磐田などで指揮の経験があったオフトを川淵がたまたま覚えていた。そしてファルカン。オフトは勝負どころで勝ちきる経験が無いという理由で解任、監督経験の浅いファルカン自身の売り込みに飛びついた。加茂周、岡田。ご存知の通り。トルシエ。ベンゲル様へのつなぎとしてフランス協会からの紹介。

そして、現在のジーコへの就任要請は川淵の鶴の一言である事は今さら言うまでも無いが、大仁がリストアップしていたのはブルーノ・メツ、エメ・ジャケ、ベンゲルであり、3氏とも就任に難色を示していたらしく、他に手の無い技術委員会に対して川淵がジーコという助け舟を出したという図式らしい。どっちもどっちと言う事か。

もちろんそこには、日本が目指すべきサッカーはこうで、トルシエは何を日本にもたらして、何が足りずにベスト8に進めなかったのか、足りない部分をさらに強化できる監督はどういう監督でそれは誰がいるのかなどといった、日本サッカーのグランドデザインはこれっぽっちも存在していない。そこにあるのは、愛しのベンゲル様とW杯を見ていて目に付いた有名監督をあても無く挙げてみた無能老中と、自分の良く知ってる有名人を言ってみて悦に入った能天気なお殿様という、まるで三文芝居のようなシーンである。

しかし著者は、会長の英断によって抜擢されたジーコについては、この本がアルゼンチン戦直後に書かれたという時期のせいか、かなり好意的な見方をする。曰く、上から押さえつけるようなトルシエに窒息していた選手にとって良い効果をもたらしている、鹿島で実質的な監督としてチームを作り上げた実績がある、基本的な決まりごとや戦術を大事にしているといった事である。

しかし、ブラジル人選手がW杯で戦う場合とは違って、世界を相手にして戦う事とJで戦う事とではステージが違うのである。経験の足りない日本選手がステージの間を埋めるためには、何らかのラディカルな手段が必要になってくるのではないか。トルシエには良くも悪くもそれがあったのだが、ジーコにはそれが無い。それで本当にいいのかどうか。そこを見通すようなグランドデザインもまた、協会同様この本には存在しない。この「日本代表監督論」という本は、あくまでドメスティックな「日本」の中の視点から書かれた「代表監督論」に過ぎないのである。

今ではダメ監督の代表例として知られてしまっているファルカンの項を読んでいると、ジーコとやたら似ている点があるのが分かる。まず監督としての経験が浅い、チーム作りに時間のかかる方法、韓国に圧倒される試合、「ブラジル村」と形容された身内で固めたスタッフ、選手のレベルの過大評価。まるでジーコ本人を見ているようである。

その当時、ファルカンに引導を渡したのは強化委員長であった川淵であり、ジーコを抜擢したのも言うまでも無く川淵である。8年間の時代を経てめぐってきたこの奇妙な符号が意味するものは、日本が世界に追いついた証なのか、ただの元の木阿弥なのか。その答えが見えてくるのはアジア予選が始まる来年2月からである。

「日本代表監督論」 潮智史著 講談社  


サッカーコラムマガジン「蹴閑ガゼッタ」