2003年10月7日

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「スローフット-なぜ人は、サッカーを愛するのか」

西部謙司著 双葉社

西部氏は、日本のサッカーライターの中で、特に欧州的な視点を持っていると感じる人である。欧州を語るのが得意な人たちはたくさんいるが、すぐ対立軸に日本を持ってきて、やれスペインは素晴らしいだのだから日本はダメなんだなどといった二元論に話を持ってきたがる。そんなものは「欧州を知っている」でも何でもない。

では欧州的な視点とは何か、と言われるとあまりにも様々な要素があって「これだ」とは一概には言えないのであるが、一つはサイモン・クーパー氏の著書の書評でも書いたが、彼ら自身の高さでの視点、つまりフーリガンでも著名なジャーナリストでも安易なレッテル張りをせず、ごく近所のサッカー好きなワルの兄ちゃん、文句ばかり言うおっさんといった日常的な、身近な存在として見る事が出来る事。この本にも、もちろんそういった魅力ある人物がふんだんに描かれている。

そしてもう一つは、「矛盾を容認する視点」ではないかと思っている。欧州というとすぐにパリやローマの観光地やカンプノウの熱狂といった日の当たるものばかりが取り上げられるが、現実は人種や宗教、社会階層といった対立と矛盾が渦巻いている。しかし、そこに住んでいる彼らは、アメリカ人のように「不正義だ!」と憤るわけでもなく、アジア人のようにあきらめて沈黙するわけでもなく、「セラヴィ(これも人生だよね)」と、どこか流されていく事を楽しむような、ちょっと達観した俯瞰視点を持つ。

あとがきによると、本書はイタリアで生まれた「ファストフード」の台頭に対して食を見つめなおす運動として始められた「スローフード」をもじって「スローフット」と名付ける事で、食の場合と同じように、いろいろなサッカーに関わる人の話を取り上げて、なぜ人はサッカーを好きになるのかという理由を見つめなおす意義で付けられたそうだ。

本書の最初には、マラドーナを「発見した」人物であるロス・セボジータスのコーチであったフランシスコ・コルネーホ氏の話が出て来る。彼は、マラドーナはフットボールの喜びであり、彼のプレイに何の制限も付けなかったらしい。マラドーナも、そういうコルネーホ氏のチームを愛し、ビッグネームになってからは彼を制限しようとする全てのものに対して勝ち目のない戦いを挑んだとある。

現在のサッカーは、このマラドーナの美しい話とは真逆であり、勝つためのほとんど全てが「フットボールの喜び」への制限である。選手は規律を強制され、自由はほとんど与えられず、汚く勝つ事はしばしば美しさより優先する。では、この「スローフット」は現代サッカーへのアンチテーゼなのだろうか。

しかし西部氏はそういった単純な善悪論を取らない。あくまでバランス感覚を持って、リケルメに対するファンハールのように、自由に対して制限を付ける側の人物の話も取り上げ、その効能を解説し分析してみせる。じゃあ、一体「スローフット」の狙いはどこにあるのだろうか。

最終章で、西部氏はサッカーにとって究極の選択である美か勝利かという質問を自分に対して投げかけ、デシャンの言葉をもってその答えとしている。「何も放棄するな、何もだ」

では、美も勝利も両方手に入るものなのか? それが西部氏の結論なのか? 果たしてそれは矛盾していないのか?

「ニッポンスローフード協会」の活動内容を見ると、まず最初に「オリーブ油やワイン、チーズなどの試食のための会食。質のよい食べ物を守り、そして違う人間同士が顔をつきあわせて食事をし、大いに語り合う」という文言が出てくる。

違う人間同士が大いに語り合う。そう、違う人間なんだから矛盾があるのは当たり前、それよりもまず自分が楽しいと思う事を大事にして人生を楽しむ事。サッカーの目的が美だろうが勝利だろうが、個人が勝手に定義して勝手に喜んで勝手に悲しめばいいじゃないか。「限られた人生、楽しまないと損だろ、セラヴィ」と。

そう考えると、西部氏が「ジーコ監督でアジア予選を敗退してもいいじゃないか」と言った気持ちも何となく分かる。つまり、サッカーを楽しむ事を第一に考えているジーコでやってみるのもスローフット的だし、それで失敗したってサッカーの歴史を考えればそれもまたスローフットだろうと。確かにそれは正しい。ただしそれは欧州や南米の場合に限った話である。

この本でも、2002年W杯で私たちに深い印象を与えてくれたアイルランド代表の事が書かれている。彼らはたとえ負けてもイングランド人のように暴れたりはしないし、イタリア人のようにいつまでも根に持たない。代表チームが、勇敢に戦うというゲールの魂を見せさえすればそれで彼らは満足なのだ。それもフットボールが彼らの分身であり、フットボールに親しむ事が飯を食うように自然な事であるからこそである。

炊きたての白ご飯と同じように、日本人の生活にとってサッカーが不可欠なものになる事。そうなって初めて、「スローフット」の掛け声が人々に届くのだろう。しかし現実はまだまだ日本ではサッカー人気=代表人気であり、代表を楽しむ余裕など存在しない。確かに、西部氏の欧州的な視点は読んでいてとても楽しい。しかし、その立つ位置は現実の我々とはあまりにも遠く、そこに日本サッカーと欧州サッカーの距離感を感じずにはいられないのである。

「スローフット-なぜ人は、サッカーを愛するのか」 西部謙司著 双葉社 


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